「売春は悪くないけど買春はダメ」論に“イイネ!”していた私が、「買春者も罰しない形でのセックスワーカーの非犯罪化が現状ベスト」と思うようになるまでに考えたこと

 


以前書いたnote記事(https://note.com/tiharu/n/n269ecd162843)からの転記です。誤字脱字で微修正は加えていますし、「この言い回しは保身ぽくて気に入らない」という部分は削ったりしています。

趣旨に変更はありませんが、そうした変化が気になる方は、上記リンクより元記事もご覧いただくとおもしろいかもしれません。(いやおもしろくはないな……?)


1、「売春は悪いことに決まってる」時代

小学生の時、電話ボックスに貼ってあるテレクラの番号にかけてみる、という遊びが流行しました。

私や私のまわりで、ではなく、クラスみんなとか学年全体でとかの単位で。

これが問題となり、それぞれのクラスでは担任からみっちりと「そういういたずらはいけません」という話があり、

さらに、担任が生徒全員を一人ずつ呼び出し、1対1で「そういういたずら、あなたはしていませんか」「しているのだとしたら、もうやめましょうね」と呼びかける、みたいなことがありました。

“ちょっとしたいたずら”ではすまない何かがあったのかもしれないし、なかったのかもしれないけど、イタ電されるテレクラの方からしたら間違いなく、いい迷惑だし、こうした注意があるのは当たり前だったと思います。

しかし、まぁこういう“いたずら”はたびたびありまして、その度に、ものすごくざっくりと

「保健体育で扱う以外の形で性的なものに関わるのは、悪いこと」

「エロ=悪」

みたいな意識を持つようになりました。

悪とまではいかないけど、「えー、ダメだよそういうの!」みたいな感じです。


私は今、三十路ちょいって感じの年齢なのですが、(※2021年のいま、なんと40歳が見えてきました!)私の世代って、「援助交際」がものすごく取りざたされた世代なんですね。

キレる17歳、とかと並んで「“エンコー”する女子高生の問題」が言われていた時代です。

「売春はダメ」

「体を売るなんてことしたら、一生取り返しのつかないことになる」

「簡単にお金が手にはいるなんて学んだらロクなことにならない」

みたいなことが、すごく言われていた時代。

「エンコーする女子高生は悪!」

「売春するような愚かな女はダメ!」

みたいな感じです。

ちょっと偉いような感じの人が「(売春は)魂が傷つく」みたいなことを言って、それがものすごく受け入れられたりもしていました。


こういういろいろがあって、高校生までの私は

「そうか、売春はダメなんだな」

と思っていました。


「普通」の「常識」として、当たり前に受け入れていた感じです。


しかし大学に入り、女性福祉やフェミニズムの概念と出会ってから、これが少し変わります。



2、「なんで売春した人が悪いって言われなきゃならないんだ」時代

売春防止法、というものの存在に出会いました。

ざっくり言うと、まぁその名の通り「売春しちゃダメだよ」という法律です。

それまでだったら、「そうだよね、ダメだよねー」で終わっていたと思うのですが、この時の私は、遊郭の仕組み、またそれがどのように変遷して、とか、戦後「一般の婦女子を守るため」といって、一般の婦女子ではないと切り分けられた人たちがどのように“活用”されたか、赤線青線の話、とかを、少し学んで聞き齧っていました。

そのうえでの売春防止法。

「え、これおかしくない?」

と思いました。


「売春しちゃダメだよ」

もなにも、

売春させてきたのは誰で、そこから逃げられないとかそれ以外では生活が難しいとかの環境があって、そうしてきた人たちがいて、今もいて、類似の仕組みは脈々と生きていて、

なのになんで「勝手に売春してる女たちがいる、あの女たちはダメだ」みたいな話になってんの?

という感じです。


「その相手方になってはいけない」

というのもあるのですが

「いやいやいや、だから、なんでまず“売春している悪い女がいる”てのが前提で話を組み立ててるんだよ、おかしいだろ」

というのに変わりはありませんでした。


あと売春防止法は、“婦人保護”の文脈で言われることもありますね。

この法律があることで、「売春(なんて信じられないようなこと)をしている女性を保護する契機になる」みたいな話です。

「いやいやいや、保護が必要なら、ただ純粋に保護しろよ。なんで『お前は悪い女だ。反省し、悔い改めよ』って罪人の烙印押されることと保護されることとがバーターみたいになってんだよ」

と思いました。


誰にも頼れず、助けてもらえず、ケアされず、比喩ではなく死に直面しながら孤独に出産した女性が“産み捨て”などと言われ逮捕されるような、あからさまに”必要なのは、まず保護”なケースでも、なぜか、まず逮捕があって、ボロボロで死にかけてるだろう人相手でも「お前は罪人だ」って刃を突きつけるのが先に来るんですよね。

「逮捕が保護につながる」っていう欺瞞、大嫌いなんです。


いえ、たしかに保護につながっているケースは多々あるでしょう。そこは否定はしないのですが、だから、だったら、まずただ保護しろよ! と思います。


話がずれました。

ともかく、そんなようなことを考えるようになり

「売春した女性ばっかりが悪いって言われるのはおかしい!」

と思うようになったのでした。


そんな時に出会ったのが、“北欧型”の概念です。



3、「そうだ、買う側を罰すればいいんじゃん!」時代

“北欧型”というのは、売買春において、売春した側を罰するのではなく、買った側を罰するべき、という法律です。

スウェーデンやノルウェーなど、北欧が取り入れ始めたスタイルのため“北欧型”“北欧モデル”などと呼ばれています。


このスタイルを知った時、私はものすごく、スッキリしたような心地になったのです。

「全部女が悪い」ってされている日本とは真逆!

“売るような女”を仕組みで作って囲ってるくせに、そういうことしてる男たちが買って楽しんでるくせに、最後には“でも悪いのは女だから”ってしてる日本とは大違い!

と思って、スカっとしたんです。


「そうだよ、こうあるべきだよ」と思いました。

「罰されるなら、金で女を買うような男側であるべきに決まってる!」と、思ったのです。


でも、次第に「いや、でもこれどうなんだろう……」という気持ちがわいてきました。


「売春を“悪くない”ってしてるなら、悪くないものを買った人だって、悪くないはずなのでは」

と、思うようになったのです。


買ったらダメ、とされているってことは、じゃあそれって「本来的には売っちゃダメなものです」って言ってるのと変わらないのでは?

それじゃあ、結局は「売ってるのもダメ」って言われてるのと同じでは?


ここまで考えて、ようやく私は、思うようになったのです。


「そういえば、“売春”ってどうしてダメなの?」


体を売る、という言葉があります。

でも売春で売っているのは、正しくは体ではなく、性的なサービスであり、時間です。

人身売買とか、臓器売買とかをしているのとは、わけが違います。


セックスは愛し合った人たちだけがするものだから?

どういう人とセックスするか・しないかなんて、決められるのは本人達だけで、外野がどうこういう話ではないのでは。

愛し合っていても暴力でしかないセックスは起こり得るし、

セフレや“一晩のアバンチュール”の相手であっても、楽しく、お互いの体を思いやるセックスはある。

それが悪くないセックスかどうか、は、愛情の有無とは必ずしも一致しないはず。


リスクが高いから?

それはあるかもしれない。

でもそのリスクの軽減を両者で行い、生じてしまったリスクへの対処が行えるとしたら、そのリスクを承知してセックスしようって決めるのは悪いことじゃないよね。

そもそもセックス自体にいいも悪いもないんだから。


金が媒介するのが悪い?

金が媒介しているかいないかと、そのセックスが暴力であるか否かって別の話だよね。


……と、

そんなようなことを、ぐるぐると考えていたのです。


読んだけど全然わかってなかった『売る売らないはワタシが決める』のこととかも思い出しつつ。


最終的に「いや、売春って別に悪ではないな」と思うに至ったのは

「金で性的サービスが買えると、男が“女の性なんて男が自由にしていいものだ”って勘違いしちゃうから」

というような声を見た時でした。



4、「男の都合や状況に合わせなきゃいけないのはまっぴら」


女が提供する“性的サービス”は、男が自由に享受できるものではありません。

「金で買える状態だと、自分が自由にしていいものだと勘違いする男が出る」っていう、その、意味がわかりませんでした。


むしろ、自由にできないものだからこそ、サービスを得るために金銭が発生するのでは。

金銭が発生し、なおかつ、守るべきルールが決められているのでは。

と、思いました。


そして根本的なところで、

「男の意識次第で、女の行為が制限される」という、その形式が受け付けませんでした。


女が自分の体をどう管理し、どう扱うかを決めるときに、なぜ、男の意識やら何やらを優先しなきゃいけないのか。


女が性的サービスを提供することで糧を得ようとした時、その女の意思が、なぜ、男の意識やらなにやら次第のせいで、いいとか悪いとか決められなきゃならないのか。


「男がどうだから女はどうすべき・どうした方がいい」っていう、どこまでも女を主体にしきれていない感じが、無理! って思ったのでした。


男女、の権力勾配がいけないのか。

勾配があることはもちろん、たしかにダメで、クソクラエな事態なわけだけれど。


でも現状、権力勾配がたしかにあって、だからダメ、というなら、その権力勾配によってワーカーが不利益を被らないように守りつつ、勾配自体をなくそうとするのが筋のはず。


男女間の権力勾配がないよう、男同士ならいいの? 女同士なら?

「それならいい」って言うなら、売春ヤメロって売春のせいにするのではなく、「権力勾配をなくせ」って言うべき。

「それでもダメ」って言うなら、その主張は権力勾配のことを言い訳に、実は自分の価値観を押し付けようとしているだけでは?

権力勾配に関係なくダメと言うなら、人の性行為を管理・制限する理由に足る、それなりの根拠が必要と思うのですが、納得できる論には、まだ出会えていません。

性行為を行うとき、「合意と尊重とルールの順守と責任を全うすること」以外に、何が必要というのでしょうか。

(未成年を相手とするものは、当然ですがのぞきます)


妊娠のリスクというなら、じゃあワーカーは不妊手術すべきということか?

不妊の人ならいいってこと?

妊娠の意図なく行われた性行為の全てを、「売春」と同じように罰する?


差別されるからやめたほうがいい?

それは「差別はやめろ」って言うべきなのでは?


”愛”のないセックスはダメ?

”愛”ってなに? ”愛”があっても暴力でしかない性的交渉はあるし、”愛”がなくてもお互いを尊重にしあったセーファーな性交渉はある。

だいたい、「”愛”のないセックス以外はダメ」って、ただの個人の価値観でしかないのに、それを他人に押し付けようとするってナニサマ……?


……あとは「魂が傷つく」論とかですかね。

「うるせー!!!!」

としか言いようもないです。


性労働の中にある搾取や暴力には徹底的に「絶許!!!!」の姿勢でいなければならないけど、性労働そのものが搾取や暴力である、みたいに言えるだけの根拠なんて、どこにもねぇなぁ。と思いました。


家族が悲しむ? くたばれ家父長制!!!!


***



以上、こんな感じの流れが

「売春は悪くないけど買春はダメ」論に“イイネ!”していた私が、「買春者も罰しない形でのセックスワーカーの非犯罪化が現状ベスト」と思うようになるまでに考えたこと

その変遷でした。


いろいろな立場・状況で私たちは暮らしていて、それぞれの暮らしによって、優先的に守らなければならないものがあったり、言わなきゃいられないものがあったりもします。

生活も命も、立場によってしまうことがありますね。

立場って、たぶんに流動的なものでもありますけどね。

だから、みんなみんなに「こんな風に考えるのがいいんだぜ!」みたいに推せる記事というほどでも、ないっちゃないんだけど。

(でもそう思ってる部分もまぁ正直ちょっとはあるから、書いたんだけど)


ともあれ大事なのは、

  • 誰かを脅かさないこと、
  • 脅かされていると感じたときには、それをしているのは誰なのか、どういう仕組みによるものなのかを、いちど深呼吸して考えてみること

だと思っています。


倫理観の押し付けだとか

スティグマの強化だとか

周縁化による排除や矮小化だとか

そういうナイフがそこらにありすぎていて、それらが日々、誰かを削いだり殺したりしているのだということには、もっともっと、敏感になりたいです。



おまけに本のご紹介

「セックスワーク」とか「セックスワーク論」とかいう言葉とかに出会ったら、まずこの本を読んでみよう!!! この本はめちゃくちゃおすすめ!!!!


『セックスワーク・スタディーズ』

あと、文中でさらっと書いていた書籍タイトル『売る売らないはワタシが決める』。こちらは以下です。名著だけど、もう随分と前に発売されたものだし、入手は難しいか……?

でも、「こんな昔にここまで言われていたことに、現代日本社会、まだ全っっっっっっっっ然追いつけてねぇんだな?!」というのがわかるから、おもしろいと思う。

(全部が全部の話に首肯してる! というわけでもないんだけど……そんなのは当たり前か)


以上、おしまい!




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