奥村英二ファースト写真集 序文と扉の訳
奥村英二のファースト写真集『NEW YORK SENSE』序文を、素人の私が訳したものです。あと扉の部分のコメント。
『NEW YORK SENSE』は、『BANANA FISH』復刻版BOXのvol.4を買うと特典でついてきます。
訳は以下より。
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<序文>
奥村英二によるたった1枚の写真が、ニューヨークのイメージを塗り替えた。
(1994年8月 ニューズウィーク)
ニューヨークの写真家である英二奥村は、1966年、日本の島根県で生まれた。
高校時代、棒高跳びの選手であった奥村は、大学生フォトグラファー・伊部俊一と知り合った。この出会いが、1985年、19歳の奥村英二が初めての海外旅行でニューヨークへと来たるきっかけとなる。
その時期について、奥村は多くを語らない。最近のインタビューでは、彼は「僕にとって、激動の時代でした」「そしてまさにあの日々が、僕の人生を変えたんです」と応えた。
彼にとっては不本意かもしれないが、ニューヨークのファンは、彼とこの大都市との出会いに大いなる感謝をせざるを得ない。
彼は日本に帰国するなり、フリーランスの写真家として素晴らしいデビューを果たし、その後すぐ、仕事に専念するためアメリカに戻って来た。
1992年、アメリカ政府は26歳の奥村英二に永住権を与えた。その2年後に開催された個展の成功は、彼を一躍有名人に変えた。
その躍進は、今もとどまるところを知らない。
本書は、奥村英二の初めての写真集である。ニューズウィークの紙面を飾って来た写真の再録であるが、彼の写真家としての優れた能力を象徴する1冊と言えるだろう。
この写真集で私たちは、大いに気づかされるだろう。ニューヨークの生活エリア、路地、都市の景観、そして私たち自身でさえ気づいていなかった、私たち自身の多様な側面について。私たちの姿は鮮やかに、そして深い造詣をともなった親密さでとらえられている。
彼の写真はまた、被写体である私たちひとりひとりの感情だけではなく、彼自身のそれをも克明に映し出している。よく言われていることではあるが、彼の鋭敏な感性は、ニューヨークに住む者であれば誰もが持っている原風景のような感覚を惹きつけてやまない。
「奥村の写真からは、なんとも言えないやさしさが伝わってくる」。あらゆる評論家が彼をそう評価し、またそのなんとも言えないやさしさこそが、彼が他の写真家と一線を画している理由であるとしている。奥村の被写体に対する新鮮な眼差しは、アメリカ中のアートシーンの注目を集めた。
最新のVoiceの記事で、彼はそれら自らに対する評価と、彼自身がニューヨークに持つ印象について以下のようにコメントした。
「たしかにこの街の人々は、僕の知る中でもかなりアグレッシブです。僕にはそれを、いいとも悪いともジャッジはできません……僕はその光の面と闇の面、両方を愛しています。ぼくの写真が”やさしい”と言わるのは、そのせいかもしれません」
1枚の写真がある。1987年、早朝。評論家たちの注目を最も集めた写真だ。被写体はアッシュ・リンクス。ご存知のとおり、ニューヨークの伝説だ。
彼のブロンドの髪、翡翠の瞳、穏やかな佇まい、そして180を超える知能指数……それらすべての要素が、彼をこの都市においてもっとも孤独で、もっとも危険な男として知らしめていた。
しかし奥村の写真は、それら全ての固定概念を覆した。おそらくアッシュ・リンクスは、奥村の”なんともいえないやさしさ”の恩恵を最も受けている人物だ。
奥村がアメリカに来た当初の目的は、ニューヨークのストリートギャングたちの”巡り合わせ”に関する伊部の取材のアシスタントを務めることだった。それがおそらく、アッシュ・リンクスと奥村との出会いとなった。
奥村は当時のギャングの暴動の最中に襲われ、その恐ろしい出来事が彼を一時帰国させるに至らせたのではと推測されている。
そのニューヨークのストリートシーンが、奥村が語った”闇”なのだろう。それならば、アッシュ・リンクスは奥村英二の”光”であるということになりそうだ。
しかしその物語については、まだ語られていない。
ともあれ今は、日本は喜ぶべきである。この若く、新進気鋭の類い稀なる才能が、ニューヨークのコンクリートジャングルで花開いたことを。
<扉>
この本を親友のAに捧げる。彼は僕の夜明けだ。
奥村英二
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おしまい。
※この文章は、以前別のブログに掲載していたものです。が、私のミスでブログが消えてしまったので、こちらに再掲しています。
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